院長経歴
私がどんな人間かを知って頂く事でご来院・ご通院に際しての不安や疑念が少しでも軽減されればと思い、良い事ばかりではなくありのままをこのページに書きました。
(当然のことながら)私は「体を診させて頂くことが仕事」なので治療に際して、私の精神論や価値観などは’どうでも良いこと’であり、それを患者様相手に語ったり、押し付けたりする事は論外だと思っております。
【性別・年齢問わず、その方の価値観を尊重した前提で、私に出来ることがあるのならばその範囲内で最善を尽くします。】というスタンスになりますので、この記事を書いた意図をご留意頂いたうえでお読み頂けたら嬉しく思います。
幼少期~
1985年長野県長野市にて産まれる。
産まれてすぐに集中治療室へ入ったり、習い事は全く続かないうえに小学校低学年までは遠足などはよく欠席するなどこの頃はとても病弱な子供でした。
小・中学生~
友人達が入るからと小2からサッカーをはじめる。
しかしながら、泳げない・ボール投げられない・ボール取れない・鉄棒出来ない・・・
授業でも突きつけられる絶望的な運動センスの無さもあり、寒かったり、眠かったりすると練習を休むような緩い感じで過ごしていた小4年の冬。
「春樹は下手だからベンチにしよう」
サッカーが上手なチームメイトに言われた瞬間になぜか火が付きました。
その直後からグラウンドではチームメイト達に指示やゲキを飛ばし出し、翌日からの練習は常に一番乗り、連日友人宅に電話をかけまくっては10人前後を集めて毎日ボールが見えなくなるまでサッカーに明け暮れる日々を送る。
小・中学校時代とキャプテンを努め、サッカー選手を夢見ていた私は、地区優勝やフットサルで県の得点王になり新聞にも取り上げて頂くなど、サッカーではワガママ放題の井の中の蛙状態になっていました。
そんな全てが思い通りだった中2の6月、練習試合で相手選手と交錯した瞬間から人生は一変します。
「あれ、膝の中で何か動いてる!?」
激痛ではないが、膝の中で何か小石のような物が動いている様な不思議な感覚。
すぐに救急の病院に行きました。
「打撲だと思うから、しばらく運動は休んで様子をみましょう」
小5から捻挫や肉離れなど、頻繁にケガをしてきた私は生意気ながらもこの診断に違和感を感じます。
「打撲でこんな違和感、出た事ないけどお医者さんが言うからそうなのかもな」
週1の診察のみで、何をするわけでもないまま1か月が過ぎました。
全校集会で床に座れば、膝の中で小石?が挟まったような感覚になり激痛で冷や汗が止まらないうえに、自分の思ったように膝を伸ばすことさえ出来ない。
生まれて初めて感じる、先の見えない不安と誰にも分かってもらえない孤独感。
「手術でも何でもいいから何とかして下さい」
私の訴えに医師が折れる形で、ケガから2か月後に内視鏡手術を受けました。
「そんなに痛がる程ではなかったけど、半月板がちょっと傷んでいたので少し削りました」
※「挟まる感じ」は半月板損傷の典型的な症状の1つです。
全身麻酔から目覚め、両親から聞いた医師のこの言葉に、14歳ながら強い憤りを感じました。
「やっぱり、打撲じゃなかったじゃないか。自分にはプロになる為に1分1秒が大切なのにこの2か月間を一体どうしてくれるんだ!」
ケガしたのは自分のせいかもしれませんが、訴えているにも関わらずに流れ作業なうえに検査希望の有無すら聞かないという態度にどうしても納得が出来ませんでした。(半月板損傷の診断にはMRIが必要ですが当時地元にはMRIがありませんでした)
不信感を感じながらも医師の指示を守り、1ヶ月後にサッカーに復帰したのもつかの間。
試合中のドリブルをしている最中にバランスを崩して転倒。
足を見るとなぜか、内くるぶしが真正面を向き、つま先が90度外側を向いている状態。
「右足首の脱臼骨折」(一般的な言い方だと複雑骨折)
そのまま救急車で病院へ搬送され、手術。
そこから計5か月に及ぶ治療とリハビリとボルトを外す手術を経験。
「もう、整形外科は信用出来ない。きっと自分のような思いをしている人は沢山いるはずだから、自分がやるしかない」
診療時間ギリギリでも、または試合前の早朝にも、迷惑そうな顔もせずテーピングをしたり診てくれた小学生からお世話になっていた接骨院の先生の姿を思い出し、接骨院の先生になることを決意。
復帰後もケガ前とのギャップに苦しみ、それまで自信の拠り所だったサッカーで自信を失い、何もかもうまくいかなくなる中で環境を変えることを決断。
誰も自分をチヤホヤしてくない所で、もう一度0からやり直そうと中3の7月にクラブチームへ。
「全部、自分のせいだと思え!!」
それまで全て人のせいにしてきたワガママ放題の私にチームの監督が言った言葉は、今現在も私の中で大切にしている言葉です。
中卒ですぐにでも接骨院の先生になりたかったのですが、高卒資格取得後に専門学校へ行く必要があることを知り、ならば出たことのない全国大会に出たい!と県内の強豪校へ進学。
高校生~
高校では、毎日5時半に起きて22時頃に帰ってくる生活。
部活がオフの日には、地元のプールに通ったり、地元で練習したりと実力で劣るならば、練習の絶対量で上回るしか可能性はないという信条をもとに3年間サッカーを続けました。
また、二度とケガをしたくないという思いから中2から高3の冬まで毎日入浴後のストレッチを15分間と接骨院への週一の通院を続けました。
しかしながら、大きなケガもなく、念願叶って全国大会に初出場したものの最終的に「努力したで賞」を監督から頂くもBチーム(2軍)のキャプテン止まりという立場で3年間を終える。
思い描いた結果とは程遠い現実でしたが、その中でも3年間「人のせいにしない」ことを実践出来たことが私にとって一番の収穫でした。
高校卒業と同時に、地元に学校が無い為に、憧れ皆無で恐怖と不安だらけの東京へ。
専門学生~
週6で朝8時から夜8時まで接骨院にて月2万の給料で修業。
昼休みに学校という生活を3年間続けました。
何を話して良いかもわからず、患者様とも挨拶以外は何も喋ることが出来なかった初めの1年半。
職人気質の院長とマンツーマンで、半年おきに難聴や胃痛で夜中に病院へ駆け込んだりと割とハードな学生生活を送る。
稼ぎが少な過ぎた為に、奨学金と実家からの米の仕送りで凌いでいた国家試験を5週間後に控えた1月末。
親の病気により数か月に及ぶ家賃滞納が発覚し、急遽1週間後にアパートからの退去勧告を受けてしまう。
選択の余地はなく、夢でなく国家資格を得る為の現実をみなくてはと修業先の院長に頭を下げ即日退社。
翌日から配送会社の工場にて夜勤のバイトを始め、不足分は友人からお金を借り、何とか専門学校を卒業、無事に国家試験をパスし柔道整復師資格を取得。
整形外科・接骨院勤務時代
借金返済の為にさいたま市に引っ越し、より給与が高く、柔道整復師資格の醍醐味である骨折・脱臼の勉強の為にさいたま市の整形外科に就職。
週6日は整形外科勤務にて骨折・脱臼・捻挫などのケガ、ギプスを巻いたり、レントゲン写真の見方を学び、同時に週末は友人への借金返済の為1年間は工場勤務を継続。
採用してくれた直属の上司の接骨院開業に伴い、接骨院勤務へと移る。
しかし、自らの思い描いていた接骨院での治療と接骨院業界全体が置かれている健康保険を使った慰安目的の施術を目の当たりにし、小学4年生以来初めて目標を失い、堕落した生活を送る。
整骨院院長時代
「国家資格とる為に頑張ったのに…今これだもんね」
ふと友人が口にした一言で目が覚める。
「全部、自分のせいにしろ!」
中学時代に心を入れ替えたつもりだったにも関わらず、都合が悪くなると人や業界のせいにしてしまっている自分に気が付きました。
甘えてしまうので強制的にやらざるを得ない状況下にいくしかないと思い、一念発起し24歳で足立区の新規開院の整骨院院長に就任。
真剣に仕事に向き合ってこなかったので当然ながら、世間話と慰安目的のマッサージ、愛想の良さしか提供できるものがない現実に直面する。
また、営業活動やチラシ配りなどを含めて良くも悪くも誰にも頼ることが出来ない感覚、患者様に来て頂くまでの苦労も学ぶ。
何一つ自信が持てていないにも拘わらず、「先生」「院長先生」と患者様に呼んで頂くことに罪悪感を覚えて、あらゆる技術系の勉強会で休日を全て埋め尽くし、毎月の給料の3分の1を専門書含む勉強に費やす。
毎日、午前午後診療前に触診や施術の確認、練習を開始。
東北から関西・・・
GWに夏休み・・・
高速バス移動とマンガ喫茶での宿泊をしながら各地の勉強会に参加し続けて得たハングリー精神や説明のつかない「結構、どんな環境下でも楽しめる」という自信?が知識以上に私の財産になっています。
また、次々と世に出てくる「見せ方を変えただけの方法論」を追いかけるよりも、全ての基になっている「人体」を掘り下げて学ぶこと、今まで習ったことを横に繋げていくことで、大半の方法論は習うまでもなく導き出せることも学びました。
将来的な譲渡の話もあり、6年半院長を務めた内の4年間をオーナーのご厚意で私の希望通りに1人体制で運営、診療させて頂きました。
スタッフに費やす労力を患者様に使った方が、患者様と私の双方にとって治療面で得られるものが大きいと考えた為です。
毎日15時間を治療家として院長として使う事が出来たのが、私にとっては本当に幸せでした。
全ての患者様を一人占め出来る、それ故に言い訳が許されない環境。
温かく、意識の高い患者様。
治療家として本当に恵まれた日々でした。
ただ一つだけ、私にはどうしても人間として耐えられない点がありました。
整骨院での保険診療の在り方です。
保険を使うことで感じる葛藤に悩んだ挙句、【なぜ自分がこの仕事を志したのか】を毎日考えました。
【健康保険使用による経済的なメリットの為にこの仕事を選んだのではない】
”純粋に治療のことだけを考えていたい”と原点に返ろうと決めました。
「せっかく、自分を信じて来て下さる方には、自分が心から良いと思える治療・環境を提供するべき」との考えから「完全予約制」「完全自費診療」への想いを強くしました。
開院
「完全予約制」「完全自費診療」への想いが抑えられなくなるも当然ながらオーナーの意向と私の方向性に相違があり独立を決意。
以降2年間求人広告一つ出して頂くことが出来ず、患者様を巻き込みたくないが故に耐えることに疲弊し、全ての意欲を失いかけていた私を常に励ましてくれたのが、奇しくも目標を失い堕落していた20代前半の頃に出会ったデザイナーの友人でした。
「看板や診察券、ロゴとかやってみたいから、早く独立してよ!」
会う度に具体的な話を進め、背中を押してくれた友人のお陰で、求人活動も自ら行うことを決意。
後任の目処がたった時期に、たまたま出会った物件に一目惚れしたうえに、わずかに先に申し込んでいた方の審査が通らなかったことに縁を感じ、祐天寺・五本木の地で矜持整骨院を開院。
信頼して下さった患者様に対して、どんな事情であれ私の都合で辞めることは虫が良すぎると思い、祐天寺まで来られない方で希望された方には今も第2・第4水曜日の午後、土曜日の午後に伺って引き続き診させて頂いています。
今後
私は自分から自発的に行動できるタイプではなく、目の前で起こった偶発的な事や各患者様の改善に対する姿勢や頂いたご信頼に対してのリアクションの積み重ね、友人達の後押しで今に至ります。
今日、提供している技術や知識も全て今までの患者様を診させて頂く過程で学んできたものであり、習得してきたものです。
従って、今後もあらゆる決断の際には(治療費や診療時間の変更等)既存の患者様を第一に決断・行動することをお約束します。
また、(治療家として当然のことながら)今まで私がしてきたことと同様に、仮に「改善に乏しい患者様がいて必要があれば」専門書を買って読み漁り、セミナー行脚し、1日でも早く何とかしようと行動し続けることも約束します。
なぜなら、「自分で診させて頂くと決めたならば」私が患者であれば相手にはこれを望んでいたし、今後もそう思うからです。
私は、治療以外には何も出来ないうえに、治療ほどに人生を掛けて夢中になれるものが他にありません。
「良くなりたい患者様」「良くなって頂くことに生きがいを感じる私」の目的は一致していると思います。
・とにかく、目の前の患者様相手に治療面で結果を出すこと。
・その為に必要なご協力(相応の通院回数や期間等)を頂く為に、信頼してみようと思って頂けるような誠実な人間であること。
まだまだ未熟者ではありますが、患者様はもちろん私自身の為にも、この2点の為に出来得る全てをしていく所存です。
そして、それに付随する現在の夢は、過去の自分自身や同じ様に
「純粋に困っている患者様の為になりたくてこの仕事に就いた方」
「または、就こうと考えている方」
に将来への疑念や不安を生じさせないような生き方を続けていくことです。
ただ生活が出来るだけでは不十分だし、この仕事に於いて胸を張れないやり方や他の方法で成り立っていても、その時点で別の職業なので評価対象にならないと思います。
また、極力私自身で築き上げていく覚悟が必要だと以前から考えてやってきました。
でないと、「あの人は環境的に恵まれていただけだから」と人を焚き付ける存在にはなれないとも思います。
「色々あるけど、柄澤ならきっとやっているだろうから自分もやろう」
安易に助け合ったり、支え合うのではなく、「張り合える存在」になること。
1人でも構わないので、世代を問わず同じ志を持つ方に背中で伝えられる治療家になること。
その為に、自分のすべきことを生涯やり続けることが目標です。
今日よりも明日。
明日よりも明後日。
もっと有効で、良質で無駄のない治療を患者様に提供できるように。
公私における、どんな事もプラスに変えてレベルアップしていけるように行動しています!
どうぞ、よろしくお願いします。